ねぐせとすっぴん

ねぐせとすっぴん

24-01の「さっつーアンソロ!」に掲載されたやつです。20になったばっかりのささとぼが18きっぷで旅行して怪レい感じになる的話。ページ分割してみたver。

 大きな机の向こう側で、司会者が乾杯のあいさつをしている。懐かしい(らしい)クラスの思い出話に周りが楽しそうにヤジを飛ばす中、わたしはテーブルの端で小さくなっていた。

 どうして高校の同窓会なんて場違いなところに、のこのこと出てきてしまったんだろう。後悔がもたもたと鎌首をもたげてくる。最初に喜多ちゃんから今日の話を聞いたとき、反射的に口をついて出そうになった断りの言葉を飲み込まなければよかった。そうしたら、こんな針のむしろに座るような気分にはならなかっただろうし……一番初めに浮かんだ直感――どうせ行ったって思い出話の輪には入れないし、周りに気をつかわれて、かえってこっちも疲弊するだけだし、そうなったら落ち着いて飲み食いもできない――「行きたくない」という気持ちの通りにすればよかったと後悔する一方で、あのときはっきりと胸の中に浮かんできた元クラスメートの顔が、再び目の前にちらついた。

 恐る恐る、少しだけ顔を上げて対角線の向こうの様子をうかがう。その人は、そこで笑って司会者の方に注目している。その両方の手の薬指に光る指輪以外は、記憶の中にある姿とほとんど変わっていなかった。

 高校を卒業して二年たった三月の頭に、佐々木さんからメッセージが飛んできた。もう一年はやりとりをしていなかったから、てっきり送り先を間違えたんだと思って「後藤ひとりです」と返事した。喜多ちゃんとわたしと三人のグループがあったから、送り間違えたんだろうと思って。

 さすがに、佐々木さんから突然「新宿西口に来て欲しい」なんてお誘いが来るような関係じゃないってことぐらい、あのときのわたしは理解しているつもりでいた。佐々木さんのほうだって、高二のときにクラスメートになって以来、喜多ちゃんを間に挟んでとはいえ、一緒の時間を過ごしてきたわけだし、わたしがどんなやつだか知らないはずもないから、こんなお誘いに乗ってこないってことくらい――しかも、なんの理由も前触れもなかったから、なおさら――知っていてくれるはずだという思い込みもあった。

 ところが、佐々木さんは間髪入れずに「あってる。後藤、旅行しない?」と送ってきた。

 旅行! その言葉を見て、さらに目が回りそうだった。佐々木さんは、その日から三泊四日で旅行するという。最初に乗るという電車の時刻表まで送ってきて、「待ってる」「今からバイトだから、また後で」――そこでやり取りが終わった。

 わたしは実家にいて、そのときは午前中だったから、行こうと思えば十分間にあう。しかも運がいいのか悪いのか、その週は予定の無い週だった。行こうと思えば行ける状態だった。

 最初は、急にそんなことを言われても……という至極常識的な思いに傾いていた。ただ、あの佐々木さんが突然こんなことを言ってくるなんて予想もできなかったから、きっとなにか事情があるんだろうとか、もしかしたら旅行なんてのは口実で、ほかの理由があるかもとか、それにしても三泊というのは具体的すぎるとか、いろんなことが同時に湧き上がってきて、混乱してしまった。

 散々悩んだ末に、わたしは三泊分の用意をキャリーケースに詰め込んだ。当時は実家暮らしだったから、お母さんたちにも旅行のことを言ったはずだけど、なんと言ったんだが覚えていない。びっくりしたお母さんとちょっとやり取りした記憶はある。お母さんもとまどっていて、いろいろ聞き出されたと思う。でも、わたしも何も知らされていなかったら、答えようがない。

 最終的に、わたしは説明を諦めて無言で用意をして、家を飛び出した。時間が迫るにつれて、とにかく行かないといけない気がしてきて、気がついたら家を飛び出していた。

 思いつくものをあれこれ詰め込んだキャリーケースを引きながら、午後七時前の新宿西口の改札にたどり着く。佐々木さんは大きなバックパックをひとつ背負って待っていた。

 佐々木さんは挨拶もそこそこに、慣れた足取りで改札に向かいはじめた。慌てて後を追えば、改札を素通りして駅員さんに切符を差し出している。にこやかな顔の駅員さんとなにかやり取りしたかと思えば、会釈をした佐々木さんは、そのまま改札内へ入ってしまった。

 私はうろたえて固まってしまう。切符もなければ行き先も教えてもらっていない。まさか、入場券で旅行に出るわけにもいかない。当時は定期券も持っていなかった。慌ててPASMOを取り出そうと思ってワタワタしていたら、先に入った佐々木さんが引き返してきて手を引かれた。無賃乗車になる――と焦っていたら、あきれた顔の佐々木さんが耳元で「十八きっぷだから」とささやいた。

 当時、青春十八きっぷの名前を知らなかったわけじゃない。でも、使ったこともないし、本物を見たのもあれが初めてだった。

 構内を横切ってエレベーターに乗る間、含み笑いを浮かべた佐々木さんが、きっぷを見せてくれて、使い方を教えてくれた。わたしを待っている間に買ったという新品のきっぷには、新宿駅のハンコが二つ押されていた。

 どこへ行くのかは教えてもらえないまま、佐々木さんと一緒に湘南新宿ラインに乗った。電車で移動の間、佐々木さんはずっと黙っていた。混んだ車内で立っている間は、ぼうっと外を眺めたり、中づり広告やモニターを見つめたりするばかりだった。

 わたしは、どこまで行くのか尋ねようと思って口を開らきかけてはやめるのを何度か繰り返した。けれども、車内が()いてやっと座れたと思ったら佐々木さんが目をつむって寝る姿勢に入ってしまったので、諦めてついていくことに決めた。

 あの時の佐々木さんは、わたしの記憶の中にあった佐々木さんとはだいぶ印象が違っていて、そのせいでひどく戸惑ったのを覚えている。高校時代の佐々木さんと言えば、喜多ちゃんをからかったり、わたしに話しかけてくれたり、ちょっと意地悪なこともあったにせよ、いつも優しく接してくれていて、わたしの高校生活の中でも数少ない良い思い出を作ってくれた、大切な友達だった。それが、その日の佐々木さんは、新宿駅を出てから一言もしゃべらなかった。まさか、あの改札でのやりとりがよっぽど気に障って、こんなやつを誘うんじゃなかったと後悔しているんじゃないか。そうだとしたらどうしようなんて考えて、気が気でなかった。でも、もう電車が出てしまった以上、その隣に座って大人しくしているしかない。もし途中で、もういいから帰れと放り出されたら、おとなしく一人で引き返そうと考えていた。最後にチャージしたのがいつだったか、PASMOの残額と財布の中身のことを考えていたから、寝ようにも寝付けなかった。

 緊張していたせいで、電車を降りた後の記憶がなかった。たぶん佐々木さんが予約したホテルに泊まったんだと思う。どこまで行けたのかも覚えていない。

 ホテルでも余り眠れない夜を過ごした。やっとまどろんで朝早く目が覚めた時、ひどく心細くなったのを覚えている。佐々木さんは、こっちの気持ちを知ってか知らずか、黙々と準備をして、朝ご飯に誘ってくれた。わたしも諾々と従って、また駅で電車に乗った。

 二日日の移動は、初日よりずっと長かった。乗った電車の終点で降りて、来た電車に乗るのをずっと繰り返していった。

 高校の時は片道二時間かけて通っていたんだから、電車に乗るのには慣れていたつもりだった。でも、今回の移動はその比じゃない。大げさでも比喩でもなく本当に朝から晩まで電車に乗り続けるなんていうのは初めてだった。しかも気が休まらなかったから、わたしはすっかり疲れてしまって、途中の出来事の記憶がほとんどあいまいだった。後で写真を見たら、やたらとたくさん姫路城が残っていたので、たぶん姫路で降りて、観光かなにかしたんだと思う。ただ、なんで降りたのかも、降りてなにをしたのかもわからない。もっと写真を撮って残すくせでもつけておけばよかったとか、帰ってきてから少し後悔したのを覚えている。

 二日目の宿泊地は広島だった。ここははっきり覚えている。コンビニでご飯を探しているときに修学旅行の話をしたからだ。高校では、喜多ちゃんと三人で京都を巡った。そのときに、わたしが中学の修学旅行先は広島だったと言ったのを覚えていてくれたらしく、どこか行きたいところはないかと聞かれたのだった。

 でも、中学の修学旅行は本当にただ行って帰ってきただけのようなものだった。高校時代よりはるかにコミュニケーションが苦手だったわたしは、班の中でもしゃべる相手がおらず、ただあちこちついていっただけだった。一応、平和記念公園とかなんとか、そういう通り一遍のところは回ったけれど、行きたいかと聞かれるとそうは答えられなかった。あんまりメジャーなところを挙げても佐々木さんは気に入らないんじゃないかと考えたり、かといって知ってる場所もないしと迷ったりした末、ないと答える。佐々木さんはクスッと笑った。

「そっか」

「す、すみません……」

「いや、いいけどさ」

 佐々木さんは、何か考えながらお弁当とお酒の缶をいくつかカゴに入れていた。わたしがウロウロしていると、袖を引かれた。

「後藤後藤」

「は、はいっ?」

「酒、飲む?」

「あ……飲んだことないです」

「あれ? 何月生まれだったっけ?」

「二月二十一日です」

「飲めるじゃん。飲んでみる?」

 佐々木さんがお酒の缶を指さしながら尋ねてきた。

 なんの缶だったかは全く覚えていないけど、ビールじゃなかったことだけははっきりしている。ホテルで二本目に口をつけたのがビールだったから。

「佐々木さんは、お酒、よく飲むんですか」

「いや。ビールかカクテルくらいかな」

「そうなんですね」

「うん。つっても、コロナがあったから飲み会らしい飲み会ってやったことないんだよね」

「はあ……」

「だから、ウチも初めてみたいなもんだし」

 佐々木さんは、鼻で笑ってお酒を何本か追加した。それとおつまみを買って部屋に戻る。

「後藤、誕生日、おめでと」

「あ、ありがとうございます」

「もうみんな二十だもんなー」

 そうつぶやきながら、佐々木さんはビールを飲んでいた。わたしがもらったのは一番度数の低いサワーで、佐々木さんが選んでくれたものだった。

「どう?」

「あ……甘くて、飲みやすいです」

「そーかそっか。よかった」

 佐々木さんは楽しそうに笑っておいしそうにお酒を飲む。疲れた身体で、酔いは早く回った。そして、調子に乗って二本目を飲もうとして、佐々木さんからビールを渡されたところで、夜の記憶は途切れている。

 翌朝目が覚めたとき、頭が重たくて起き上がるのに苦労した。すぐ隣から乾いた笑い声が聞こえて、ギョッとして振り返れば、ベッドのすぐ隣、同じ布団の中に佐々木さんがいた。

「寝癖、やば」

 ハッとして、指さされた後ろ頭を抑える。あきれ笑いの佐々木さんに言われるまま手の位置を下げていくと、髪の先のほうがひどくこんがらがっていた。

 フラフラしていると、掛け布団をたたんで起き上がった佐々木さんが、サイドボードから(くし)を取り、ベッドにスペースを作って手招きしてくる。

「ちょいちょい、こっちこっち」

「え?」

「とかすから」

「す、すみません……」

 招かれるまま近づき、ゆっくり向きを変えると、すぐその手が伸びてくる。ベッドサイドの鏡をのぞきこむ状態になり、佐々木さんが髪の先にゆっくり(くし)を通し始める。

「すげーな、これ」

「すみません」

「謝るようなことじゃないけど」

「はい……」

「後藤、全然飲めないんだな」

「うっ……すみません……」

「いや……まあ、しかたないでしょ」

 佐々木さんは、愉快そうに鼻歌を(ほう)りながら、小さな声でぼそっとつぶやいた。

「後藤のすっぴん、久しぶりに見たなー」

「あ、え?」

「いやいや。全然会えなかったから」

 ていねいに髪の毛の先をほぐしながら、佐々木さんは懐かしそうな、ちょっとだけ寂しそうな声で小さくつぶやいた。

「もう二年たつんだよな」

「は、はい……」

「結束バンドも頑張ってんじゃん」

「あ、はい」

「時々聴いてるけど、後藤、相変わらず前向けないんだな」

「うう……」

「はは、まあいいけどさ」

 やっと前みたいに雑談ができるようになって、少しほっとした。話をしていると佐々木さんの中身は変わらずに佐々木さんだった。高校を出てからのこととか、高校時代のことを少し話しているうちに、わたしはなんだかホッと安心を覚えて、ウトウトしてしまっていた。

 突然頭を両方からわしづかみにされて、思わず飛び上がりそうになる。まばたきをすると、鏡の中から、イジワルな笑顔を浮かべた佐々木さんが私の頭を抑えながら話しかけてくる。

「終わったけど」

「あっ、ありがとうございます……」

「なに? ウチの顔に、なんか付いてる?」

「あ、いえ、いいえ! 全然……素顔がきれいですね……?」

「はは、なんそれ」

「すみません……」

「おもろいからいいけど」

 佐々木さんは、そのまま腕を伸ばしてわたしの胸に回すと、少し力を入れて引き倒してくる。そのまま佐々木さんの横に寝かされてしまう。

 目と鼻の先で見つめ合うと、佐々木さんの目はちょっとだけ湿っていたような気がする。懐かしい話をしたから、さみしくなったのかなとか、当時のわたしはそんなことを考えていた。

「後藤、あと何日行ける?」

 佐々木さんが顔を近づけて、小さな声で尋ねてきた。吐息が前髪にかかってくすぐったかった。

「え……? 明後日(あさって)までじゃないんですか?」

「あー、まあ。ウチはもう少し行けるんだけどさ」

「えっと……土曜に、バイトがあるので」

「そっか。じゃあ明後日(あさって)には帰らないとまずいか」

「すみません」

「や、いいって」

 急に佐々木さんが起き上がったので、そのときの話はそこで終わりだった。わたしは一緒に起き上がって朝の支度を調え始めた。

 ホテルの朝ご飯を食べ終わって荷物の確認をしていた時、佐々木さんから「電車乗る?」と聞かれた。

「え……?」

「いや、ずっと乗ってきたし、船とかバスとかもアリかなって」

 佐々木さんは財布からとりだしたきっぷをハタハタと仰いでみせる。

「買い足したら余るし」

 佐々木さんは口の中で言葉を転がしただけで、とくに返事を待つわけでもなく「行こ」と言った。

 広島の駅に着いてから、佐々木さんは案内板を見比べたあとにわたしの顔を見て苦笑を浮かべ、バスにしようと言った。

「後藤、船弱そうだもんなー」

「す、すみません……」

「いいって、いいって」

 窓口でチケットを買ってもらい、代金を渡す。時間を潰してバスに乗る。

 バスの中で、佐々木さんはごくごく小さな声で「どこまで行けるかな」と言った。もし、ちょうどそのタイミングですれ違うか追い越す車がいたら、たぶん聞き取れなかっただろうというくらいのかすかな声だった。

 なにか、キュッと胸の奥をつかまれるような感覚があって、わたしは思わず、じっと佐々木さんの横顔を見つめていた。ぼうっと、どこか遠いところを見つめるような、ぼんやりした表情の佐々木さんは、しばらくの間、わたしの視線に気づかなかった。

 バスを降りたのが昼過ぎだったから、何か食べようという流れになった。わたしたちは駅の近くをウロウロして、適当なラーメン屋を見繕っておなかを満たす。

 佐々木さんが少し歩きたいと言ったので、地図を頼りに港を目指した。船を見つめる佐々木さんの横顔があまりにもさみしそうに見えたから、わたしは知らず知らず、そっとその横に立って手を取っていた。

「うっわ!」

 佐々木さんがすっとんきょうな声を上げた。まさか、こっちからこんなことをするとは予想していなかったみたいに。

「な、なに?」

「あ……その、船、乗りませんか?」

「え?」

「わたし、乗ったことがないから酔うかわからないんですけど……佐々木さんが乗りたいなら……」

「え、でも、どこいくの?」

「し、調べます!」

 ()(げん)そうな佐々木さんの前で、わたしは急いでスマートフォンを取りだした。このタイミングで船に乗らなかったら、後悔するような気がしたから。

 とはいっても、なんの知識も無いわたしにできることは、ブラウザを立ち上げて「九州 フェリー」と打ち込むことくらいだった。それで関東行きのフェリーが引っかかったとき、時間も何も見ずに「これがいいです!」と佐々木さんに突きつけて、苦笑いを浮かべられた。

「これ、明日の夜着くやつみたいだけど」

「あ、明日は一日、()いているので大丈夫です」

「んー……後藤の家、横須賀の近くだっけ?」

「あ、えっと、はい」

「ならちょうどいいか」

 佐々木さんが自分のスマホを取り出して行き方を調べてくれる。時間に余裕があると言って、お土産を冷やかしたり、うどんを食べたり……その間、佐々木さんはずっとクスクス笑っていた。

 連絡バスで港に着いたのは、深夜になってからだった。ライトに照らされた大きなフェリーを見上げて、佐々木さんは感嘆の声を上げた。

「でか」

「おっきいですね……」

「いいなー、こういうの」

「そうですか?」

「うん」

 クスクス笑いながら、佐々木さんはスタスタと歩いて行く。わたしは言い出しっぺにもかかわらず、佐々木さんに手続きをお願いして、代金を払っただけ。結局、最後まで佐々木さんに頼りっぱなしの旅行が、終わろうとしていた。

 荷物を片付けてから、佐々木がデッキに出たいと言った。二人で外に出て、夜の海を見つめていたとき、佐々木さんはしみじみと、小さな声でつぶやいた。

「後藤はやさしいからな――」

 それは波の音に飲まれてもおかしくないような小さな声だったけれど、わたしの耳にはハッキリ聞こえた。

「え……?」

「あの……後藤、さ……。抱きしめてくんない?」

 佐々木さんの声は少し震えていた――と、思う。あの時の光景は、なぜだかハッキリと思い出すことができる。佐々木さんはこちらの顔を見ていなかった。港の(あか)りが、その顔を照らしていた。目に飛び込むネオンの光が、キラキラと反射してまぶしかった。

 わたしは、そっと近づき、上ずる声を必死で押さえつけた。

「し……失礼します……っ」

 恐る恐る手を伸ばす。ポケットに手を入れたまま、脇を開いて迎え入れてくれながら、佐々木さんはわずかに振り返ったと思う。その穏やかな、透き通った瞳が、キラリと街の(あか)りを反射した記憶があるから。

 後ろからぎゅっと抱きしめると、脇にはさまれる。ぎゅうぎゅうに抱きつくと、佐々木さんはケタケタ笑ってひとつさけんだ。

「あったけー!」

 こんなふうに笑う佐々木さんを見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。すぐ思い出せる笑顔といえば、何かを思いついた時や隠している時のニヤ〜ッとした笑顔か、喜多ちゃんを眺めている時のあきれたような、あるいは苦い笑顔とか。

 私の記憶の中にはない佐々木さんの笑い顔――暗い海を眺めて、ケタケタ笑うその声と顔は、一番やんちゃな笑顔だったと思う。

 もし、あのデッキでわたしたちの旅が終わっていたら、これほど幸せなことはなかったと思う。とにかく、出航した後の時間は地獄だった。特に一日目はひどい船酔いのせいで、ほとんどなにもできなかった。

 いちおう、出航してすぐだけはテンションの上がっている佐々木さんと一緒に船内のお店を見て回るくらいの余裕があったけれど、しばらくするとすっかり酔ってしまった。後にも先にもあんなに長い時間のフェリーに乗ったことがないから、あの日が特にひどく揺れていたのかどうかわからないけれど、わたしたちの船は結構揺れていたと思う。佐々木さんが酔い止め薬と飲み物を買ってきてくれたけど、それもあまり効かなかった。わたしは、トイレに行くのでなければずっとベッドの上で丸くなっていた。

 一方の佐々木さんは、全く船酔いはしていないようだった。それどころか、自分のカプセルで横になっているわたしを置いて、船内を散策したり、お風呂に入ったり。時々戻ってきて様子を聞いてくれる。ただ、わたしの返事はあまりかんばしくなかった。

 レストランでお夕飯を済ませてきたという佐々木さんが、隣り合うカプセルの入り口に腰を下ろして、ケタケタ笑いながら缶ビールを飲んでいた。

「いいよ、後藤はそのままで」

「へ……?」

「ずっとそのままでいて欲しいな」

「ずっとはこれはいやです……」

「ははは。じゃあ定期的に七転八倒して」

 陽気な佐々木さんが笑った。こんな苦しみを味わうのはいやだと思ったけれど、何を言い返す気力も体力も無くて、わたしは丸まってうなっているしかできなかった。

 同窓会はたぶん盛況のまま進んでいった。たぶんがつくのは、わたしはやっぱりうまく会話に混ざれなかったから。それでも、周りの元クラスメートたちと少し話をして、当たり障りない返事を返すくらいのことはできた。あれから十二年たって、わたしもわたしなりにコミュニケーションの取り方を学んだ。やっぱりひとと話をするのはおっくうなんだけれど、最低限それっぽくかわすことはできるようになったと思う。

 途中で席を外したときのことだ。

 お手洗いに行って、帰り道の途中で喫煙所に寄り道をした。お店の外に出て、通りに背を向けながらライターを回していたら、急にドアが開いた。

「後藤!」

 中から飛び出してきたのは佐々木さんだった。ビクッとしてとっさに両手を挙げると、すかさず腕を回してきてギュッと抱きつかれる。

「ははは、なにしてんの?」

「あ、危ないじゃないですか……!」

「んあ? 火、持ってんのか」

「はい」

「ごめん、ごめん」

 ケタケタ笑う佐々木さんは、わたしの前に立つと、両肩に手をおいて、ぽんぽんとたたいてきた。

「変わんないな、後藤は!」

 あきらかにテンションが高すぎる。街灯の明かりに透かしてみると、その頰はうっすら色づいている。

「佐々木さん……飲み過ぎ……?」

「後藤がそんなこと言うなよお」

「す、すみません」

「いいじゃん、きょうくらい」

 佐々木さんの口調は少しモタついていた。久しぶりの飲み会で懐かしいみんなに会ってはしゃぎすぎたんだろう。佐々木さんは優しかったし、わたしなんかと違ってたくさんの友だちに囲まれていたんだから。

「何、吸ってんの?」

「あ、アメスピです」

「なんで?」

「長持ちするので……」

「はははっ! 学生かよ!」

 けたたましく笑って、佐々木さんはようやく身を離してくれた。やっと解放されたとホッとしていたら、そばのベンチにストンと腰を下ろした佐々木さんが手を伸ばしてくる。

「一本ちょうだい」

「佐々木さん、吸うんですか?」

「お酒飲んだときだけね」

 催促されて、一本差し出す。ライターも渡すと、慣れた手つきでカチッと火をつけ、ゆっくり一口煙を吸って吐く。

「自分で買ったこと、無いな、そういや」

「え……?」

「や、なんかいつももらってばっかりだからさ」

「そ、そうなんですか……」

「普段吸わないんだけど、ひとが吸ってると欲しくなるときがあってさ」

 並んでベンチに座ったまま、しばらく吸ったり吐いたり。静かな時間を過ごす。

 佐々木さんはことさらゆっくり煙を味わいながら眉を寄せて少し考えているようだった。何を言いたいのか、何が話題になりかかっているのかは少しだけ予想がついた。でも、わたしのほうでもキッカケにできる言葉がなくて、黙ってタバコをふかしつづけた。

 わたしがいたたまれなくなって二本目に火を付けたときだ。佐々木さんが、半分くらいの長さになったタバコを口にくわえなおして、バッグを開けた。その中からスッと小さな封筒を取り出す。さらにその中から出てきたものを差し出されて、わたしは思わず火を付けたばかりのタバコを落としてしまった。

「……覚えてる?」

 差し出す佐々木さんの指は、かすかに震えていた。少し傷の目立つ、くたびれたきっぷを受け取って、わたしは一日目に降りた駅を思い出した。浜松駅だった。

 どこか、心細そうな視線と小さな声で尋ねてくる佐々木さんに、わたしは大きく何度もうなずいてみせた。佐々木さんはパッと顔を明るくして、うれしそうに笑った。

「あはは。そっか。博多まで行ったよね」

「行ったというか、ずっと移動してるだけでしたけど……」

「帰りはやたらめったら食べたじゃん?」

「あ……わたしはほとんど寝ていたので……」

「それいゆの話でしょ?」

「え……?」

「それいゆ。フェリーの名前」

「あ……そうなんですね……」

「『ご飯が食べられる』って、泣きながらかけうどん食うやつ、初めて見た」

「わ、忘れてください……」

「無理だなー」

 佐々木さんは、あと一つ残して期限切れになったきっぷを(いと)おしそうに眺めながら、煙を吐いた。

「後藤さ、ありがとね」

「え?」

「急に連れ出したのに付き合ってくれて」

「びっくりしましたけど……」

 率直な気持ちを伝えると、佐々木さんは実に愉快そうに笑ってから話を続けた。

「ウチ、就職決まってたでしょ?」

「はい」

「だから、なんか最後にやり残したことないかなーとか、考えてて。急に後藤のこと思い出してさ」

「はい」

「喜多とはやりとりしてたし、結束バンドのMVも見てたんだけどさ。後藤とは会わなかったなと思って」

 そのあと、佐々木さんはまた黙り込んでタバコを吸っていた。

 最後の一口を吸い終わると、灰皿に落としながらぽつりとこぼす。

「ごとーは、やさしーからなー……」

 きっぷを大切に封筒に戻して、バッグに入れようとした佐々木さんが急に動きを止め、顔を上げてじっとわたしを見つめた。意味がわからなくて見守っていると、ニコッと微笑(ほほえ)んだ佐々木さんが、しまいかけた封筒を差し出してきた。

「後藤、いる?」

「いらないって言ったら、どうなるんですか?」

 佐々木さんは、ニヤーッと笑った。見慣れた意地悪な笑顔だった。なんだか、ひどく懐かしくてわたしも笑っていた。

 それから封筒を持ち上げて、顔の前で軽く振った。

「持って帰ってしまっとく」

「なら、いりません」

「そっか、そーか」

 二人で笑いながら中に戻り、それぞれの席に向かう。わたしは入り口の近くに、佐々木さんは奥の方に。

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