ブキスケちゅー未遂事件の第一

けさ、七種依吹はゴキゲンで駅までの道を歩いてきた。久しぶりのオフだから、というだけではない。久しぶりに渚美海と休日の楽しい時間をともに過ごせるからだった。

駅についたのは待ち合わせよりだいぶ早い時間だった。待ち合わせ場所の彫像が見える一角についてからスマホを取り出す。美海とのやりとりは昨日の夜で止まっていた。もうとっくに起きてはいるだろう。だが、支度でもしているのか、特別なにもいってこないし、こちらもとくに何も送っていない。

なにか送ろうか少し考えて、じゃっかん時間を使ってからスマホをしまう。どうせ、あと少しで会える相手だ。こんな時間に送るメッセージもない。

それより、近くで待ち伏せて驚かせてやろう──待ち合わせに早く着いたとき、依吹には、そんなイタズラを思いつくくらいの遊び心も、そんな遊び心を働かせるくらいの余裕もあったのだった。

時間通りに美海が来て、二人でいくつかの店を回る。といってもリストアップしていたのは、最近流行りの数店舗くらいで、それをこなしてしまえば、あとは予定も何もなかった。

昼ご飯をはさんで更に街を練り歩く。とくに行く先があるわけでもない。何となく目に留まったところへ入っては二人で楽しみ、また歩いては目的地を探す。

ひとしきり遊んで、太陽もずいぶんと傾いてきた。二人は人混みに流されながら街、広場を通り抜け、公園の中を散策していた。冬も近づいて肌寒い頃だ。時間の割に、外はずいぶん暗かった。

「ミミ助、夜、どうする?」

「お昼、けっこう食べちゃったからなあ」

「うん。わたしもまだあんまりお腹空いてなくて」

「あした、あるんだよね?」

「うん。朝は少しゆっくりできるけど」

「飲みに行くほどじゃないしなあ」

美海がくすくす笑っている。笑いの原因はここにいない。二人の共通の友人で、ビールが大好きな──かといってたいして強くもない、燃費の良い親友のことだ。

その友人とも時々三人、あるいはどちらか二人で遊びにゆくことがある。きょう来ていないのは、タイミングの問題だった。

「あ、依吹、あっち行ってみない?」

「え?」

「紅葉の季節だしさ」

美海が、そういいながら手を取って引いてくる。依吹は、引かれるままに足を動かした。

不揃いの階段を降りて寺の横を抜けると大きな池が現れる。ふだんは貸し出しボートの周りに家族連れや観光客が群がっているが、もうそれらも落ち着いた時間帯だ。点々と置かれているベンチには、ちらほら人影も見える。そんなすがたをひやかす美海の後について歩いていくうち、池の半分も過ぎてしまった。

「少し座ろっか」

「うん」

美海がスタスタと歩いて、池の見渡せるベンチに腰を下ろした。その横に並んで座る。触れ合う肩がやわらかく温かく、こちらのからだを押し返してくる。

美海に話しかけられて、依吹はぼんやりと返事をしていた。話題はたあいもないことばかりだった。さっきもしたような話をぐるぐると続けている。けれども、そんな話をする美海の表情は心から楽しそうで、依吹は、相槌を打ちながらぼうっと見入ってしまっていた。

ふと、会話が途切れていることに気づく。ぱちぱちと目をまたたけば、美海が少し下から、心配そうにこちらの顔をのぞき込んでいた。

「どうしたの?」

「え……?」

「悩みごと?」

上目遣いにのぞき込んでくる美海。その表情には嘘も偽りもない。こちらの反応があんまりにも薄かったせいだろう。あらぬ心配をかけさせてしまったようだった。

「ううん────」

依吹はその心配を止めるつもりだった。ただ美海の──楽しそうな顔に見入ってしまっただけなんだと。しかし、心配している美海に、本当の理由を伝えるのはこそばゆく感じられる。

なんて言ったら納得してくれるだろうか。考えている間も、美海はじいっとこちらの表情をうかがっている。

ベンチのすぐ隣からのぞき込んでくるのだ。ちょうど、依吹の後ろに街灯があるのもいけなかった。自分の影の間で、美海のやわらかそうなくちびるがきらきらと輝いて見えた。

依吹は──ゆっくりと顔を近づけていた。言葉を待っていたはずの美海が、目を丸くしている。それでもこちらの言葉を待っているのだろう、場所は動かないまま──ぬくい吐息が鼻先をくすぐる──鼻の先で、美海がたじろぎながら、戸惑うように口を開けている──

「あの……依吹……さ〜ん……??」

「あ…………えっ……ええっ!?!?」

「えっ、その反応はちょっと傷つくんだけど……?」

依吹ははたと我に返ってのけぞった。

あのまま、美海が声をかけていなかったらどうなっただろう?

美海はこちらの言葉をじっと待ってくれていた。じぶんはそんな美海に魅入られるように顔を近づけていた──そのまま、二人の距離が限りなくゼロに近づいていったとしたら──?

「ご……ごめんっミミ助っ!」

「え……っ?」

依吹は美海の手を振りほどいて立ち上がった。すこし驚いたらしく、美海がけげんそうにこちらを見つめている。やはり、ここでもうしろから光が落ちてくるのが行けない。きらりとかがやく美海のくちびるから目が離せない──かあっと、顔が熱くなった。

それからのことは全くうろ覚えだった。美海にどう弁解したのかも覚えていない。帰る道すがら、なんどもスマホの通知がなっていたような気がするが、それすら恥ずかしくて開けられなかった。

なにせ、美海からのメッセージだ──と思うと、とたんにあのつやつやした──順光の中で、小さく、しかしはっきりとその存在を主張していたくちびるの影が、目の前に思い浮かんでしまうからだ。

家に帰るなり、依吹は玄関で崩れ落ちる。ポケットのスマホを握りしめると、ちょうどまた一つ通知がなった。だが、それを取り出す勇気は起きなかった。

依吹は、ぐったりとうつむいたまま、大きなため息をこぼす。

「な、なにやってんだ、わたし──!!!」

#ブキスケちゅー未遂既遂事件

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